おめでとうございます。神奈川大学生協設立50周年

2021年01月11日

神奈川大学生協(神大生協)は、1970年11月13日に神奈川大学大講堂で設立総会を開きその正式な活動が始まりました。第1回理事会では、宮川武雄理事長(経済学部教授)、佐藤和夫専務理事を選出しました。翌71年4月に設立認可を受け、購買部と書籍部の2店舗で生協の営業がスタートしました。設立50年、おめでとうございます。
50周年がコロナ禍と重なり、卒業式や入学式の中止を皮切りとするオンライン授業と学内入構禁止・制限により、これまでのような事業活動ができずご苦労されている皆さまを思うと悔しさで一杯です。


神大生協の歴史は1946年まで遡ることができます。戦後間もない1945年の秋に、多くの大学や高等専門学校で学生大会が開催されました。教材 や文具が不足し食糧難が深刻化して「学ぶことは食うこと」であった時代、決議されたことは、学生自治会の創設とともに学生の厚生に関わる問題であり、その後、協同組合(生協、 共済会、厚生会)が全国的に作られていきました。当時の横浜専門学校(現神奈川大学)では、学生団体である校友会(1948年5月に自治会に改称)のもと専門部が組織され、その中に共済部が置かれ、小規模の食堂経営が行われ図書やバッジなどが販売されました。その後生協創設までは長い歳月を要し、この間には先人の多くの努力が積み上げられました。

1968年に学生を中心に教職員を巻き込んだ大学の民主化闘争が起こり、 生協はこの闘争の過程で設立が承認されました。しかし創設までには更に幾多の苦難がありました。

1970年4月に神奈川大学生の堀井君・小林君がアルバイト中に 労災で事故死という痛ましい事件が起こりました。学生2人の事故死は当時の学生にとってショックでした。この時代は高度経済成長期でしたが、高物価、インフレは学生の生活を圧迫し、学生アルバイトを急増させていました。神奈川大学における生協設立は、学生が学ぶためには働かねばならず、身心ともに蝕ばまれていく存在であることを深刻に受け止め、学生の経済的な負担を少なくすればアルバイトを削減できるとの主張と闘いは、多くの学生・教職員の理解と協力と支持を得ました。生協は、「このような学生生活の破壊を、自らの生活基盤の中から対抗すべき地平を構築」(総代会議案書)することと位置づけて取り組まれたのです。今の世の中に通ずる内容です。

設立後も様々な困難を乗り越え、「食」「購買」「プレイガイド」の3つの柱を充実させつつ、学生や教職員の憩いの場、食事の場、勉学研究生活を支える場として大学生活のサポートをしてきました。そして食の安全・安心、地産地消、寄付講座や学生を対象とした山形庄内での農業体験、健康づくり、平和、被災地支援、フードバンクかながわへの加盟など幅広く問題意識を持って取り組んでいます。神奈川県生協連の活動においても理事を担い、福島の子ども保養や生協大会などで大きな支援を頂いております。

また神奈川大学生協からは、元山梨県生協連会長理事の高橋勇さんをはじめ地域生協で活動された方を輩出してきました。
改めて50年の歴史を作り積み重ねてきた神奈川大学生協の先輩たち、そして今の皆さまに感謝と敬意を表します。このコロナ禍でもぜひ次の発展を切り開いてください。

神奈川大学生協
〒221-0802 横浜市神奈川区六角橋4-7-3 電話:045-481-5688
理事長:呉 春美 専務理事:滝澤 栄司
★食事
カルフール(10号館2階)、シフォン(10号館3階)、LUX(19号館地下1階)
・お米は山形県庄内地方からの直送です。
・味にこだわります。
・地産地消に取り組みます。
★買い物
横浜キャンパス19号館購買部、横浜キャンパス19号館書籍部、オンラインショップ
★プレイガイド
国内旅行・合宿、海外旅行・語学研修・留学、各種チケット、よみうりランド、国際学生証、運転免許(通学教習・合宿教習)、スクール・専門学校、証明写真・名刺、卒業袴(貸衣装)、レンタカー

 

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◎日本の生協運動と大学生協の歴史

世界における生活協同組合は、産業革命後 のランカシャーの労働者の間で生まれたロッ チデールにはじまるといわれている。この協同組合の思想はロッチデール原則として知ら れているが、その理念はその後の世界の生協 運動に影響を与え、基本において日本の生協 運動に引き継がれてきた。日本で本格的な協同組合運動が始まるのは工業化が始まる1890年代である。労働者が増加し、松方デフレの影響による窮乏化した農民の都市への流動化を背景に、生協の前身となる「共働店」が東京・横浜・仙台・札幌などに設立された。こうした動きに対応し、大学でも協同組合が作られた。この嚆矢をなすのが1898年に安倍磯雄などによって同志社に作られた協同組合(購買組合)であった。この組合ではおもに学用品を扱ったが、1年ほどで解散し短命に終わっている。その後、1903年には慶應義塾で消費組合が作られ、1907年東京高等農学校(1911年東京農大)、1910年にかけて日本女子大、東京高等商業(後の一橋大学)をはじめ多くの学校で、学校組織の支援を受けるなどして協同組合が設立 されている。慶応義塾の消費組合では、1株50銭の株式組織で発足、洋服裁縫部や書籍部をもち、寄宿舎の売店では文房具や日用品などを扱った。そして順調な運営により数年後には出資金(株)を全額払い戻している。

第一次世界大戦後の経済不況と物価高、米騒動など社会不安が広がる時代、またロシア革命の影響によって労働組合運動が広がりをみせるなか、協同組合運動も活発化した。1919年には吉野作造を理事長に「家庭購買組合」が設立され、組合員およそ1万人を擁するまでに発展、翌年には賀川豊彦の指導のもとで購買組合共益社、神戸消費組合などが設立された。神戸消費組合は「コープこうべ」の起源である。この時代、大学においても、賀川豊彦や安倍磯雄らの指導を受けて、「大学消費組合」が法政大学・ 早稲田大・拓殖大学・東京大学・立教大学・ 明治大学・明治学院などで作られている。しかし、昭和に入り軍国主義が強まるなかで国家による規制と圧力が強まり、生協運動は危機的状態に陥る。そして戦時体制に入り1938年の国家総動員法と経済の統制が強められる中で生協は消滅ないし休業へと追い込まれ、大学の協同組合もまたそのほとんどが消えていった。

生協活動が再び活発化するのは第二次大戦の敗戦後である。日本経済が壊滅的な打撃を 受け、多くの国民が飢餓線上を漂っていた戦後の時代、民主化が進んだこともあって、食料や諸物資を自ら獲得し供給することを目指した生協が各地に続々と誕生した。生協活動が活発化する中、1948年7月には「国民生活の安定と生活文化の向上を期することを目的」とした「生協法」(消費生活協同組合法)が片山内閣時代に発議され芦田内閣において成立した。 戦後間もない1945年の秋に、多くの大学や高等専門学校で学生大会が開催された。教材や文具が不足し食糧難が深刻化して「学ぶことは食うこと」であった時代、決議されたことは、学生自治会の創設とともに学生の厚生に関わる問題であり、その後、協同組合(生協、共済会、厚生会)が全国的に作られていった。東京大学では、46年2月に農学部に協同組合が作られたのをきっかけに、4か月後には全学の協同組合が発足、理事長に南原繁総長、 理事に大内兵衛経済学部教授が就任している。京都でも、46年1月の同志社大学を皮切りに、京都大、立命館大、龍谷大、府立医大、旧制三高などで協同組合が作られ、全京都学生協同組合が設立されている。全国的にみると、1946年から47年にかけて設立運動が活発化し、慶応大、早稲田大、法政大、明治大、東北学院大、北海道大、東北大、九州大、宮崎大、鹿児島大などで協同組合ないしはその前身となる組織が作られている。発足当時の大学生協は食糧難のなか食料を学生に提供する食堂の運営に重点をおき、また生活必需品を供給した。さらに書籍の供給やアルバイトの斡旋や教材のプリントなどの運営も行った。

神奈川大学でもこの時代に厚生を目的とした事業が始まっている。1946年には生協の前身ともいうべき〈共済部〉が学生の自治組織であった校友会のもとに作られ小規模ながら食堂経営と図書の販売を行っており、徐々に生協設立の機運が学生の間で高まりつつあった。欠乏する物資の獲得のために生協間の協同が必要とされ、1947年にはこの相互の協同関 係を土台に「全国学校協同組合連合会(全学協)」が結成された。しかし経済体制の変化や学制改革によって大学生協は組織的にも経済的にも難しい局面に立たされ、一時的に活動を休止また停止した生協が増加した。こうした状況に対して、各大学で生協再建の努力がなされ、また全国組織である全学協の建て直しの機運が生まれた。この活動の中心になったのは東京大、明治大、早稲田大、慶應大、中央大の5つの組合であり、51年3月に東京大で開かれた全学協第3回大会では、危機を乗り越えるべき再建の指針が提示され、53年3月の第5回大会では、生活改善運動の発展を踏まえ、生協運動がその担い手となることが確認された

1955年頃から生協の法人化が進められた。これは54年4月の租税法改正で人格なき社団にも課税されることになり、全学協が各単協に生協の体制整備と法人化を促したことにはじまり、1960年には主要大学生協のほとんどが法人化した。とくに私学では法人化を契機に大学の管理権からの独立や市民権の確立を目指す積極的な姿勢がみられた。その後、全学協を中心とした活動としては、57年の比叡山で行われた大会で、教育環境整備運動を推進すること、消費者運動の推進、平和と民主主義を守る運動の3つの課題が合意され、全国的な共同仕入れへ向けた取り組みなどの方針が議決されている。

しかし1960年代に入り学生運動が既成政党の枠を超え「全共闘」運動など全国学園教育闘争へと展開していく中で、学生運動と生協運動の関係をめぐる路線の対立が生まれ、これが生協間の対立となって、76年には九州7生協除名まで発展するに至った。神奈川大学は、学生による生協設立運動が大学によって認められず、主要な大学から大きく遅れることになったが、学生の大学民主化運動の中で準備され、1970年に大学理事会、教授会の支援のもとにようやく設立に漕ぎつくことが出来た。